組織が責任を取るということ(下)-じゃあこれは誰が責任を取っているのかしら [現場のシステム]
上編のキモは、自民党や公明党などの失政のツケが、結局回り回って私たちのところに降りかかってくるわけで。結局政治の実行責任者が、誰も責任を取らないままという組織構造は、政治を預かる人たちには許されるものではないわけで。結局失政の責任は結果的に私たちが取ることになるということを考えると、うんざりするわけで。
で、ターゲットを「非営利組織」に戻す。確かにボランティア的な組織においては組織の特性から、過剰に責任追及をするのではなく、「何をするべきか」を考えるべきではあるのだが。
・・・ふとこんなことを考えた。
組織の中で、あるプロジェクトを実施する。で、だいたいの組織ではその成否に関して何らかの賞罰が発生する。成否を判断するのは、そのプロジェクトの目的、そして目標があるのだから、それ自体はそんなに難しくない。
しかしその後の対応を注意しないと組織の停滞を招く。つまりプロジェクトの失敗に過剰な責任を求めれば、あらたなプロジェクトの担い手がいなくなってしまうし、逆に何の責任も求めなければ、いい加減なプロジェクトが蔓延するし・・で、実際にいっぱいあるし・・。
けれどプロジェクトに関して、評価もしなければ批判もしない組織だとどうなるだろう。成功させても何の恩恵もない代りに、失敗しても誰も何も責任をとらない。そんなプロジェクトは組織の行く先に何を残すだろう。
そして表向き誰も責任をとっていないように見えながら、組織運営や経営が悪化したことに伴って、例えば・・
機器の更新が出来ない、修理できない中で無用なストレスを感じながら仕事をする
今までよりも労働強化が行われているのに給料が減る
というような事態を招いたとしたら、いったい誰が責任をとっていることになるのだろう。
・・言わずもがなだろうと思う。
さて、ドラッカーの件の論文には次のセンテンスがある。「非営利組織は内部指向になりがちである。あまりに大義にコミットし、正しいことを行っていると信じるがゆえに、組織自体を目的と錯覚する。それでは単なる官僚主義である」
組織運営における意見の対立を利用することを勧める彼は「「全員が賛成」ということは何も考えていないことを意味する」とも。常に満場一致で物事が決する組織においては、常に自戒を込めて受け止められるべき言葉だろう。
・・・
ドラッカーは日本での人気が特に高いようだ。自己啓発的な内容で文章が平易だからだろう。確かにスラスラと読める。ドラッカーを読んでいる人は多いみたいで、財界人にも人気がある。しかるに現在の労働環境を見ると、彼の理論はあまり実践されていないみたいでもある。
・・・
私たちの組織を顧みて、上記のドラッカーの指摘に、ちょっとドキリとさせられたものであったから、地方選も間近だったという局面からこんな事を書いてみた(笑)。
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