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昔の入院と1980年代の気管支喘息のこと -自己決定権の罠「六歳の原点」を読んでの回想 [雑想]

 さるフェミニストの方が紹介していたので、電子版を購入して読んでいる。小松美彦教授の「『自己決定権』という罠」。


*kindle版 最新版の一つ前


*最新版 電子版なし

 この本の主題とは別に、著者の小松氏が虎の門病院に6歳の頃2週間入院したことを記述しているが、これを読んで思い出す。私も入院していたことがあったのだ。1980-81年に。

入院したこと 1980年。北海道日高地方の大きな病院で

 私は子どもの頃、3度ほど入院した。
 体があまり強くなかったのかよく風邪も引いた。なにより気管支喘息だったので、よく発作を起こしそれが決まって深夜なものだから、翌朝までほとんど眠れず学校を休むことがあった。
 喘息というのは、発作時に気管支が炎症で細くなる病気。横になっていると息苦しくなるので、椅子に腰かけるなどして体を起こすと-ほんの少し-楽になる。でもそうすると眠れない。ほぼ夜が明けるくらいまでまんじりともせず、でもさすがに睡魔に負けていつの間にか眠って目が覚めると朝で、学校に行かなければならないのは結構しんどかった。

 さて、一度目の入院は虫垂炎だった。地域で一番大きな赤十字病院に入院した。小児科病棟はないので女性の8人(6人だったかも)部屋だった。その病院では毎朝6時になるとスピーカーから音楽が流れてくる。起床時間なのである。そして「検温の時間です」というアナウンスが流れ、看護師が病室に入って水銀式の体温計で検温する。水銀式は計測に5分ほどかかるので、看護師は一旦別の患者に対応し、しばらくして戻り体温計を回収していく。昼ご飯は普通の時間なのだが、夕食が早い。午後4時半にもう配膳されるのだ。消灯時間は必ず午後8時。それ以降は起きていてはいけなかった。
 その病院は最上階に売店があって、そこで時間を潰すのが唯一の娯楽だった。なにせ病室にはテレビもないし、音楽も聞けない。ソニーからウォークマンが発売されたくらいの時期だったが、そんな高価なものを小学生が持っているはずもない。もちろん携帯電話もない。公衆電話で連絡するくらいしか通信手段もなかった。
 当時は虫垂炎術後でも7日間ほどの入院が必要だったので、とても暇だった。しかも最終日、抜糸の日だったのだが喘息発作を起こして呼吸器的診療を行い帰宅した記憶がある。

2度目の入院 1981年。田舎のある町立病院のこと

 当時気管支喘息は一応発作時に薬らしいものは飲むこともあったが、あまり効果を感じられなかった。でも発作は断続的にあった。
 月に数度はそんな発作が起こり、時間外に田舎の町立病院に受診した際、対応した医師は不機嫌(*)そうに入院を宣言した。1981年の秋頃だ。こうして私の2度目の入院が始まった。
*現在のレベルの「不機嫌」ではない。明らかに怒っているわけだ。その理由は最後に書く。

女性の6人部屋 とんでもない患者たち

 私は男性だったがまだ小学校高学年だったので、当時田舎の病院で小児科病棟などあるわけもなく、またも女性の病室だった。6人部屋だったと思う。
 前回虫垂炎の時は、他の患者のことなど全く気にならなかったのだが、今回の入院は期間が決まっておらず、両親は数日のつもりだったが半月も入院になってしまった。すると同室内の他の患者も見えてくる。
 当時はベッドネーム部分に名前と、生年月日と年齢、そして入院日が書かれていた。子ども心にぎょっとした。「この人2年も入院してる。あ、あの人は1年も」という感じでやたらと長く入院しているのだ。全員認知症(当時は老人性痴呆と言った)でもなく、スタスタ、とまではいかないがしっかり歩いて元気なのである。何の病気なのだろうと思うとどうやら糖尿病だったり、心臓の何かだったりするらしい。
 年齢は60代後半から80代半ばまでだった。90代はいなかった(*)

 糖尿病の「患者」はこっそり差し入れの大福とか饅頭とか食べているし、正直なんの治療をしているのかさっぱりだった。食後の服薬は皆あったが、それ以外は、検査するでも経過観察するでもないという感じだった。これは私が子どもで見ても分からなかったのもあると思うが、実際投薬以外の治療はしていないだろう。
 そして同室者には、性格がねじ曲がっているのがいた。こそこそ嫌味を言ったり、なにかするたびに文句を言ったりと、そんな人が病室に1~2人はいる。
 面会に小学生の学友が来たり、親が来たりと私のところには頻繁に誰か来る。子どもだったし現代では当然だろうが、どうもそこが気に食わなかったのだろう。長期入院のこうした人には滅多に面会が来ず、たまに来ると同室者の文句ばかり言っている。で私が何かするとぶつぶつ小言を言っている。
 私にはそれが不快で仕方なかった。
 穏やかで優しい人も入院するが、そんな人に限ってすぐに退院してしまっていた。

 思うに、口さがない言い方すると家族に疎まれて入院させられちゃってるのかな。本人それを自覚しているから性格がねじ曲がったのか。それとも性格が悪いから「捨てられた」のか。
 まあ今更どっちでもいいや。そんな人が当時はいた。「社会的入院」というやつだ。これが全国共通かは知らないが。

*60代後半をなぜ覚えているかというと、「私は70歳なのよ。だから老人医療使えるはずなのよ」と何度もグチっていたから。あまりにもグチが多かったので覚えている。1981年頃の60代は子どもの頃数えで年齢を呼称するから70歳といっても満年齢では68-69歳になる。この頃は老人医療費が無料だった時代なので、対象なら入院医療費も無料だったはずだ。食費も同様。ちなみにこの人も性格が悪かった。

当時の入院喘息「治療」

 午前中私は点滴治療があった。だいたい毎日だったと思う。私は当時も痩せていて血管が見えやすく、新人看護師の練習台になったこともあるほどなのだが、それでもミスする人がいる。血管のルートをうまく取れず腕が腫れる。決まってそれが同じ看護師なので、その人が来ると嫌な気持ちになった。その人はルートが外れると必ず「動かさないでね」と私が悪いかのように言う。
 で、点滴の内容だが、これは推測だが生理食塩水だけだったように思う。というのも入院も後半になって夜間に喘息発作が出るようになった。点滴しているのに何も改善せず、連日夜間にネブライザーでの吸入治療をした。ネブライザーはきちんと効果を発揮した。

病棟のナースステーションにて

 深夜の吸入などの処置は病室ではなくナースステーションで実施した。すると廃棄する点滴セットやシリンジなどが置いてある。これは当時は良いオモチャになるものだった。やっぱり大人が仕事で使っているものを子どもは触りたいものなのだ。
 で、当時はお願いするとそれらを本当にもらえた。ただガラスのシリンジというか「注射器」は殺菌して再使用するのでもらえない。注射針ももらえなかった。注射針をもらえないのは、感染症予防というよりは単純に尖っていて危ないからだったように思う。
 退院後それらを使って遊ぶことはなかったが。

すぐに3度目の入院 -そもそも治療していないから

 半月ほどして母親が病院に、退院はいつか聞いた。数日のつもりだったから当然だろう。すると「明日退院しましょう」ということで急遽退院になった。明日だったか二日後だったかは正確には覚えていないが、とにかく急に退院になったことを覚えている。

 でも、治療受けていないんですよ多分。改善していないから自宅に戻った夜にまた発作が起こった。当時入院前からモルモットを買い始めていたので、それが原因である可能性があった。
 受診すると今度も医者は怒って再入院ということになった。またも女性の6人部屋。そのうち1人の性格がクソ悪い。

 3度目の入院も同じような治療と同じような時々の発作。ただ入院しているだけだったので何も改善はしなかった。1か月も入院したが、入院も退院も、その理由はよくわからなかった。

気管支喘息は何も改善しなかった 田舎の病院に見切りをつける

 両親はもうここではダメだと見切りをつけたようだ。退院後各種の情報を当たり、様々なことを試した。当時「乾布摩擦」という乾いたタオルで皮膚をこするという健康療法が学校全体で行われていた。効果はなかった。「灸」も試した。煙でかえって喘息が悪化した。
 札幌郊外に良い医者がいると聞いて出かけた。自宅から5時間くらいかかった。紹介状をもらい札幌市民病院に受診した。そこではアレルギー検査をし、アレルゲンはハウスダストが若干、始まったばかりのステロイド吸入療法を開始した(当初はインタールCap吸入だったかも)。テオフィリン(当時の薬名はテオナ-P、気管支拡張剤)、ベネトリン(気管支拡張剤)、ビソルボン(気道粘液溶解剤)の服薬が始まった。吸入薬ははじめ別の薬だったがすぐにベコタイド(ベクロメタゾン)になった。中学からはメジヘラー・イソ(β2刺激薬)が発作時吸入薬として処方された。
 当時は処方が2週間が限度で遠隔処方などない時代だったので、毎回札幌市民病院まで通わなければならない。鉄道もない「えりも町」だったので、朝の4時過ぎに自家用車で様似駅に行き5時7分の始発で札幌に向かった。交通費がバカ高い(往復7千円くらい)のとやたらと時間がかかる(片道5時間)のもあって、医師に相談し地元で2週処方してもらい月1回の受診でよいということになった。
 しかし田舎の医者は札幌市民病院の紹介状を無視し処方しなかった(と思う。薬は飲んでいたので記憶が微妙)。代わりに注射をすると言い40日間ほぼ毎日静注した。これも生食だったと思う。当然何の効果もなかった。

 両親は転勤することをこの時点で決めたのだろう。翌年4月から私は転校することになった。

 喘息のことは2005年にちょっと書いた。

気管支喘息と言われて(娘の気管支喘息は結果的に誤診だった)

 田舎の医者がなぜ喘息に怒っていたのかもこの中に書いている。喘息が本人の弱さや親の育て方にあるなんて思われていた不幸な時代だった。
 ただ不幸だったのは田舎の医者にほぼすべての原因があるが。治療法の変わり目の時期、新たな情報を得ようとしない怠惰な医師でも、田舎では診療ができた時代だった。
 ちょっと言い方きついかな。でも私にも専門分野があり、それを生業にするのなら、それなりに勉強は続けないといけないことを身をもって知っているから。
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