「超左翼おじさん」の除名の件 ~日本共産党は明らかにやりすぎ [社会情勢]
なんだかずいぶん昔に見たことがあるような...。90年代の半ばくらいまではこんなものを目にしたが...。
という印象を持ったのは、最近の「しんぶん赤旗」に良く載る「何かを批判する論文」だ。
規約と綱領からの逸脱は明らか――松竹伸幸氏の一連の言動について
党攻撃とかく乱の宣言――松竹伸幸氏の言動について
「結社の自由」に対する乱暴な攻撃――「朝日」社説に答える
事実踏まえぬ党攻撃 「毎日」社説の空虚さ
怖い怖い。文体が怖い。セレクトする単語が怖いぞ。
これ今年2023年の1月に刊行された「シン・日本共産党宣言」という-悪いんだけどちょっと書名のセンスがなあ-という新書の著者にまつわる様々な出来事がその発端になっている。
「出来事」と書いたが著者の問題ではない。著者の行動に対して共産党がとった反応が物議をかもしているのである。
シン・日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由 (文春新書) Kindle版
経過としては以下の通りである
・松竹伸幸氏がBlog「超左翼おじさんの挑戦」で持論を展開する。AbemaPRIMEなどにも出演
・2023年1月19日。松竹氏、安全保障や党首公選制を求める意見等が記された「シン・日本共産党宣言」を発刊
・同日松竹氏日本記者クラブで記者会見
・21日しんぶん赤旗にて批判記事(上記リンク参照)
・2月5日、共産党地区委員会が松竹氏除名を決定
・2月6日共産党京都府委員会で松竹氏の除名を承認。組織上除名確定
・同日松竹氏日本記者クラブで記者会見
・7日新聞各紙で報道。その後も社説やコラム等で各紙が除名を批判
・赤旗に連日松竹氏とマスコミの批判記事が掲載される(上記リンク参照)
まあ、こんな感じなんですが。
安全保障論について、私は自衛隊に対して、それは軍隊であると考えているし、そもそも暴力装置に対しては活用し、利用する存在と考えている。だから彼が言うように「・・護憲派がこぞって「自衛官を愛し、活かしたい」という考えの上で「だから九条を守る」と言えるなら、その時初めて「九条派」と「自衛隊派」の間に議論が成立するのではないか、と考えたのです。」(サイトSAKISIRU2021年12月記事)とも考えていない。
*サキシルは代表がHanadaに連載持っているような人なのでリンクは貼らない。しかもこの記事、リードに「元共産党の「超左翼おじさん」」って書いてるけど、この時点では共産党員でしょうに。そういうとこだぞ、サキシル!
「自衛隊」なるものはさ、旧軍の歴史を継続してると公言してるし、歴代幹部がクソ右翼かそれに近いし、講演会に竹田恒泰みたいな皇族を僭称するビジネス右翼を講演会に招くようなクソ組織なんだよね。そこは松竹氏、考えてほしいよね。
松竹氏は自身で意見を発信するだけではなく、わりかし無節操にこうしたサイトにも登場するものだから、一部の左翼からは共産党を右に引っ張る人物だ、として批判されていた。私の知るところでは、ね。
著書を読んでみる
まあ何も読まずして共産党中央の意見を垂れ流すのも、よく知らずに中央を批判するのもどうかと思う。赤旗の記事は読んだ。それで「シン・日本共産党宣言」を買って読んでみる。
ざっくりした感想を言うと、この本は特に共産党がこれまで野党共闘路線で進めてきた諸政策-特に安全保障政策-を、あいまいなままにせず段階論を設定して、その段階にあった政策を明示せよということだ。現段階では自衛隊容認・日米安保維持。実はこれは共産党も前から野党共闘で言い続けている。松竹氏は安保維持だけではなく、核抑止力を除いた専守防衛を提案している。専守防衛については2015年の「戦争法」以前の政策に合致する。
とまあこんな感じで、共産党のこの間の政策と綱領と規約に沿ったかたちでの提案を行っていると私は読んだ。さすがは長い党歴を持つ共産党員ならではの著作である。
「党首公選制」もこれまで共産党内で政策として否定しているわけではなく、それを取り上げて発表することは規約違反でもない、としている。これもよくわかる。
*まあでもね。「党首」って言葉を社会党が使い始めたのが90年代半ばで、その時は委員長じゃないのか自民党に合わせたのかと批判があったんだよ結構ね。
なぜ彼が除名になったのか
という印象を持ったのは、最近の「しんぶん赤旗」に良く載る「何かを批判する論文」だ。
規約と綱領からの逸脱は明らか――松竹伸幸氏の一連の言動について
党攻撃とかく乱の宣言――松竹伸幸氏の言動について
「結社の自由」に対する乱暴な攻撃――「朝日」社説に答える
事実踏まえぬ党攻撃 「毎日」社説の空虚さ
怖い怖い。文体が怖い。セレクトする単語が怖いぞ。
これ今年2023年の1月に刊行された「シン・日本共産党宣言」という-悪いんだけどちょっと書名のセンスがなあ-という新書の著者にまつわる様々な出来事がその発端になっている。
「出来事」と書いたが著者の問題ではない。著者の行動に対して共産党がとった反応が物議をかもしているのである。
シン・日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由 (文春新書) Kindle版
経過としては以下の通りである
・松竹伸幸氏がBlog「超左翼おじさんの挑戦」で持論を展開する。AbemaPRIMEなどにも出演
・2023年1月19日。松竹氏、安全保障や党首公選制を求める意見等が記された「シン・日本共産党宣言」を発刊
・同日松竹氏日本記者クラブで記者会見
・21日しんぶん赤旗にて批判記事(上記リンク参照)
・2月5日、共産党地区委員会が松竹氏除名を決定
・2月6日共産党京都府委員会で松竹氏の除名を承認。組織上除名確定
・同日松竹氏日本記者クラブで記者会見
・7日新聞各紙で報道。その後も社説やコラム等で各紙が除名を批判
・赤旗に連日松竹氏とマスコミの批判記事が掲載される(上記リンク参照)
まあ、こんな感じなんですが。
安全保障論について、私は自衛隊に対して、それは軍隊であると考えているし、そもそも暴力装置に対しては活用し、利用する存在と考えている。だから彼が言うように「・・護憲派がこぞって「自衛官を愛し、活かしたい」という考えの上で「だから九条を守る」と言えるなら、その時初めて「九条派」と「自衛隊派」の間に議論が成立するのではないか、と考えたのです。」(サイトSAKISIRU2021年12月記事)とも考えていない。
*サキシルは代表がHanadaに連載持っているような人なのでリンクは貼らない。しかもこの記事、リードに「元共産党の「超左翼おじさん」」って書いてるけど、この時点では共産党員でしょうに。そういうとこだぞ、サキシル!
「自衛隊」なるものはさ、旧軍の歴史を継続してると公言してるし、歴代幹部がクソ右翼かそれに近いし、講演会に竹田恒泰みたいな皇族を僭称するビジネス右翼を講演会に招くようなクソ組織なんだよね。そこは松竹氏、考えてほしいよね。
松竹氏は自身で意見を発信するだけではなく、わりかし無節操にこうしたサイトにも登場するものだから、一部の左翼からは共産党を右に引っ張る人物だ、として批判されていた。私の知るところでは、ね。
著書を読んでみる
まあ何も読まずして共産党中央の意見を垂れ流すのも、よく知らずに中央を批判するのもどうかと思う。赤旗の記事は読んだ。それで「シン・日本共産党宣言」を買って読んでみる。
ざっくりした感想を言うと、この本は特に共産党がこれまで野党共闘路線で進めてきた諸政策-特に安全保障政策-を、あいまいなままにせず段階論を設定して、その段階にあった政策を明示せよということだ。現段階では自衛隊容認・日米安保維持。実はこれは共産党も前から野党共闘で言い続けている。松竹氏は安保維持だけではなく、核抑止力を除いた専守防衛を提案している。専守防衛については2015年の「戦争法」以前の政策に合致する。
とまあこんな感じで、共産党のこの間の政策と綱領と規約に沿ったかたちでの提案を行っていると私は読んだ。さすがは長い党歴を持つ共産党員ならではの著作である。
「党首公選制」もこれまで共産党内で政策として否定しているわけではなく、それを取り上げて発表することは規約違反でもない、としている。これもよくわかる。
*まあでもね。「党首」って言葉を社会党が使い始めたのが90年代半ばで、その時は委員長じゃないのか自民党に合わせたのかと批判があったんだよ結構ね。
なぜ彼が除名になったのか
昔の入院と1980年代の気管支喘息のこと -自己決定権の罠「六歳の原点」を読んでの回想 [雑想]
さるフェミニストの方が紹介していたので、電子版を購入して読んでいる。小松美彦教授の「『自己決定権』という罠」。
*kindle版 最新版の一つ前
*最新版 電子版なし
この本の主題とは別に、著者の小松氏が虎の門病院に6歳の頃2週間入院したことを記述しているが、これを読んで思い出す。私も入院していたことがあったのだ。1980-81年に。
入院したこと 1980年。北海道日高地方の大きな病院で
私は子どもの頃、3度ほど入院した。
体があまり強くなかったのかよく風邪も引いた。なにより気管支喘息だったので、よく発作を起こしそれが決まって深夜なものだから、翌朝までほとんど眠れず学校を休むことがあった。
喘息というのは、発作時に気管支が炎症で細くなる病気。横になっていると息苦しくなるので、椅子に腰かけるなどして体を起こすと-ほんの少し-楽になる。でもそうすると眠れない。ほぼ夜が明けるくらいまでまんじりともせず、でもさすがに睡魔に負けていつの間にか眠って目が覚めると朝で、学校に行かなければならないのは結構しんどかった。
さて、一度目の入院は虫垂炎だった。地域で一番大きな赤十字病院に入院した。小児科病棟はないので女性の8人(6人だったかも)部屋だった。その病院では毎朝6時になるとスピーカーから音楽が流れてくる。起床時間なのである。そして「検温の時間です」というアナウンスが流れ、看護師が病室に入って水銀式の体温計で検温する。水銀式は計測に5分ほどかかるので、看護師は一旦別の患者に対応し、しばらくして戻り体温計を回収していく。昼ご飯は普通の時間なのだが、夕食が早い。午後4時半にもう配膳されるのだ。消灯時間は必ず午後8時。それ以降は起きていてはいけなかった。
その病院は最上階に売店があって、そこで時間を潰すのが唯一の娯楽だった。なにせ病室にはテレビもないし、音楽も聞けない。ソニーからウォークマンが発売されたくらいの時期だったが、そんな高価なものを小学生が持っているはずもない。もちろん携帯電話もない。公衆電話で連絡するくらいしか通信手段もなかった。
当時は虫垂炎術後でも7日間ほどの入院が必要だったので、とても暇だった。しかも最終日、抜糸の日だったのだが喘息発作を起こして呼吸器的診療を行い帰宅した記憶がある。
2度目の入院 1981年。田舎のある町立病院のこと
当時気管支喘息は一応発作時に薬らしいものは飲むこともあったが、あまり効果を感じられなかった。でも発作は断続的にあった。
月に数度はそんな発作が起こり、時間外に田舎の町立病院に受診した際、対応した医師は不機嫌(*)そうに入院を宣言した。1981年の秋頃だ。こうして私の2度目の入院が始まった。
*現在のレベルの「不機嫌」ではない。明らかに怒っているわけだ。その理由は最後に書く。
女性の6人部屋 とんでもない患者たち
私は男性だったがまだ小学校高学年だったので、当時田舎の病院で小児科病棟などあるわけもなく、またも女性の病室だった。6人部屋だったと思う。
前回虫垂炎の時は、他の患者のことなど全く気にならなかったのだが、今回の入院は期間が決まっておらず、両親は数日のつもりだったが半月も入院になってしまった。すると同室内の他の患者も見えてくる。
当時はベッドネーム部分に名前と、生年月日と年齢、そして入院日が書かれていた。子ども心にぎょっとした。「この人2年も入院してる。あ、あの人は1年も」という感じでやたらと長く入院しているのだ。全員認知症(当時は老人性痴呆と言った)でもなく、スタスタ、とまではいかないがしっかり歩いて元気なのである。何の病気なのだろうと思うとどうやら糖尿病だったり、心臓の何かだったりするらしい。
年齢は60代後半から80代半ばまでだった。90代はいなかった(*)。
糖尿病の「患者」はこっそり差し入れの大福とか饅頭とか食べているし、正直なんの治療をしているのかさっぱりだった。食後の服薬は皆あったが、それ以外は、検査するでも経過観察するでもないという感じだった。これは私が子どもで見ても分からなかったのもあると思うが、実際投薬以外の治療はしていないだろう。
そして同室者には、性格がねじ曲がっているのがいた。こそこそ嫌味を言ったり、なにかするたびに文句を言ったりと、そんな人が病室に1~2人はいる。
面会に小学生の学友が来たり、親が来たりと私のところには頻繁に誰か来る。子どもだったし現代では当然だろうが、どうもそこが気に食わなかったのだろう。長期入院のこうした人には滅多に面会が来ず、たまに来ると同室者の文句ばかり言っている。で私が何かするとぶつぶつ小言を言っている。
私にはそれが不快で仕方なかった。
穏やかで優しい人も入院するが、そんな人に限ってすぐに退院してしまっていた。
思うに、口さがない言い方すると家族に疎まれて入院させられちゃってるのかな。本人それを自覚しているから性格がねじ曲がったのか。それとも性格が悪いから「捨てられた」のか。
まあ今更どっちでもいいや。そんな人が当時はいた。「社会的入院」というやつだ。これが全国共通かは知らないが。
*60代後半をなぜ覚えているかというと、「私は70歳なのよ。だから老人医療使えるはずなのよ」と何度もグチっていたから。あまりにもグチが多かったので覚えている。1981年頃の60代は子どもの頃数えで年齢を呼称するから70歳といっても満年齢では68-69歳になる。この頃は老人医療費が無料だった時代なので、対象なら入院医療費も無料だったはずだ。食費も同様。ちなみにこの人も性格が悪かった。
*kindle版 最新版の一つ前
*最新版 電子版なし
この本の主題とは別に、著者の小松氏が虎の門病院に6歳の頃2週間入院したことを記述しているが、これを読んで思い出す。私も入院していたことがあったのだ。1980-81年に。
入院したこと 1980年。北海道日高地方の大きな病院で
私は子どもの頃、3度ほど入院した。
体があまり強くなかったのかよく風邪も引いた。なにより気管支喘息だったので、よく発作を起こしそれが決まって深夜なものだから、翌朝までほとんど眠れず学校を休むことがあった。
喘息というのは、発作時に気管支が炎症で細くなる病気。横になっていると息苦しくなるので、椅子に腰かけるなどして体を起こすと-ほんの少し-楽になる。でもそうすると眠れない。ほぼ夜が明けるくらいまでまんじりともせず、でもさすがに睡魔に負けていつの間にか眠って目が覚めると朝で、学校に行かなければならないのは結構しんどかった。
さて、一度目の入院は虫垂炎だった。地域で一番大きな赤十字病院に入院した。小児科病棟はないので女性の8人(6人だったかも)部屋だった。その病院では毎朝6時になるとスピーカーから音楽が流れてくる。起床時間なのである。そして「検温の時間です」というアナウンスが流れ、看護師が病室に入って水銀式の体温計で検温する。水銀式は計測に5分ほどかかるので、看護師は一旦別の患者に対応し、しばらくして戻り体温計を回収していく。昼ご飯は普通の時間なのだが、夕食が早い。午後4時半にもう配膳されるのだ。消灯時間は必ず午後8時。それ以降は起きていてはいけなかった。
その病院は最上階に売店があって、そこで時間を潰すのが唯一の娯楽だった。なにせ病室にはテレビもないし、音楽も聞けない。ソニーからウォークマンが発売されたくらいの時期だったが、そんな高価なものを小学生が持っているはずもない。もちろん携帯電話もない。公衆電話で連絡するくらいしか通信手段もなかった。
当時は虫垂炎術後でも7日間ほどの入院が必要だったので、とても暇だった。しかも最終日、抜糸の日だったのだが喘息発作を起こして呼吸器的診療を行い帰宅した記憶がある。
2度目の入院 1981年。田舎のある町立病院のこと
当時気管支喘息は一応発作時に薬らしいものは飲むこともあったが、あまり効果を感じられなかった。でも発作は断続的にあった。
月に数度はそんな発作が起こり、時間外に田舎の町立病院に受診した際、対応した医師は不機嫌(*)そうに入院を宣言した。1981年の秋頃だ。こうして私の2度目の入院が始まった。
*現在のレベルの「不機嫌」ではない。明らかに怒っているわけだ。その理由は最後に書く。
女性の6人部屋 とんでもない患者たち
私は男性だったがまだ小学校高学年だったので、当時田舎の病院で小児科病棟などあるわけもなく、またも女性の病室だった。6人部屋だったと思う。
前回虫垂炎の時は、他の患者のことなど全く気にならなかったのだが、今回の入院は期間が決まっておらず、両親は数日のつもりだったが半月も入院になってしまった。すると同室内の他の患者も見えてくる。
当時はベッドネーム部分に名前と、生年月日と年齢、そして入院日が書かれていた。子ども心にぎょっとした。「この人2年も入院してる。あ、あの人は1年も」という感じでやたらと長く入院しているのだ。全員認知症(当時は老人性痴呆と言った)でもなく、スタスタ、とまではいかないがしっかり歩いて元気なのである。何の病気なのだろうと思うとどうやら糖尿病だったり、心臓の何かだったりするらしい。
年齢は60代後半から80代半ばまでだった。90代はいなかった(*)。
糖尿病の「患者」はこっそり差し入れの大福とか饅頭とか食べているし、正直なんの治療をしているのかさっぱりだった。食後の服薬は皆あったが、それ以外は、検査するでも経過観察するでもないという感じだった。これは私が子どもで見ても分からなかったのもあると思うが、実際投薬以外の治療はしていないだろう。
そして同室者には、性格がねじ曲がっているのがいた。こそこそ嫌味を言ったり、なにかするたびに文句を言ったりと、そんな人が病室に1~2人はいる。
面会に小学生の学友が来たり、親が来たりと私のところには頻繁に誰か来る。子どもだったし現代では当然だろうが、どうもそこが気に食わなかったのだろう。長期入院のこうした人には滅多に面会が来ず、たまに来ると同室者の文句ばかり言っている。で私が何かするとぶつぶつ小言を言っている。
私にはそれが不快で仕方なかった。
穏やかで優しい人も入院するが、そんな人に限ってすぐに退院してしまっていた。
思うに、口さがない言い方すると家族に疎まれて入院させられちゃってるのかな。本人それを自覚しているから性格がねじ曲がったのか。それとも性格が悪いから「捨てられた」のか。
まあ今更どっちでもいいや。そんな人が当時はいた。「社会的入院」というやつだ。これが全国共通かは知らないが。
*60代後半をなぜ覚えているかというと、「私は70歳なのよ。だから老人医療使えるはずなのよ」と何度もグチっていたから。あまりにもグチが多かったので覚えている。1981年頃の60代は子どもの頃数えで年齢を呼称するから70歳といっても満年齢では68-69歳になる。この頃は老人医療費が無料だった時代なので、対象なら入院医療費も無料だったはずだ。食費も同様。ちなみにこの人も性格が悪かった。