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ある行旅死亡人に、浮浪者と蔑まれた「戦災孤児」を想像した [社会情勢]

 2012年の初頭、私はインフルエンザにかかって出勤停止になった。ヒマだったのでふとしたことで見つけた官報のサイトで、その官報を延々と読み続けたことがある。

 官報には破産とか失踪、身元不明で死亡した人(行旅死亡人)の情報が掲載されることがある。というかほぼ毎号掲載されている。「失踪」には時折、江戸時代の元号に生まれた人物や、最後の住所が「東京府」だったり「ブラジル国サンパウロ州」などというものがある。
 さて、その中で非常に印象に残ったものがあった。

平成24(2012)年2月9日 官報号外第30号
行旅死亡人
本籍・住所・氏名不詳の男性、自称大和一夫、
推定年齢74歳、身長174cm、体重65kg、重度精神発達遅滞、統合失調症、家族関係、生育歴等は聞き取りができず一切不詳
上記の者は、昭和32年11月、東京都民生局の「一斉収容」により上野で保護され、昭和32年12月から当区内の病院に入院となっていたところ、平成23年12月8日に死亡しました。身元不明のため、遺体は火葬に付し、遺骨は保管してあります。(後略)


 昭和32年というと1957年。日本の敗戦から12年。「一斉収容」とは、行政がたびたび行っていた、いわゆる「浮浪者狩り」というものだろう。彼は50年以上も、おそらくは精神病院に入院させられ、そのまま今日まで入院し続けていたのだろう。
 2011年死亡時74歳なので、「収容」時の彼の年齢は20歳前後。敗戦時8歳ということになろうか。

 なぜこんなことを思い出したかというと、下記の本を読んだからだ。


浮浪児1945 -戦争が生んだ子供たち

 著者は77年生まれで私よりも若い。力作だ。一気に読んだ。

 戦災孤児の発生を「東京大空襲」から取上げ始め、激化する「空襲」によって被災地から東京、上野に吸い寄せられるように戦災孤児が集まってくる。
 そして家庭の事情で家出をした子らも集まり、闇市の発展に伴い大人たちの手伝いなどで食いつないでいく子どもたち。それらを豊富な証言から構成している。もちろんスリやひったくり、窃盗などといった犯罪行為も多く出てくる。そうしなければ生きていけなかった。

 戦争中はそれでもまだよかったようだ。しかし戦後は状況が一変する。1945年は戦争で男手がとられたことに加え、枕崎台風の影響もあって、食料生産は激減。そして次々と復員する軍人たち。未曾有の飢饉が翌年の食糧メーデーの「汝人民飢エテ死ネ」を生み出したのだろう。

 まあ、戦争中はいわゆる「外米」がベトナムなどから輸入されていたから、それがある程度日本人の食生活に貢献していたのだろう。ただし一方で、ベトナムではその前年から同年までに、200万とも言われる人が犠牲になっていることも忘れてはならない。

 証言者からは、単につらく苦しいだけではなく、同じ境遇の子どもらやテキヤ、売春婦との不思議な共同関係も語られる。この本の多くは、このように、子どもたちがどうやって生きてきたかが語られる。
 とはいえ、これは証言者の意見をベースにしているため、実態としてはどうだったのだろう。それは著者もわかっているようだ。この本は、まず遺書から始まる。

死亡当時15歳の少年の遺書
 私には母も父もないのです。私の過去四年間の生活は、本当にさびしいものでしたこのような子どもが落ちていく道は二ツでした。
 一つはヤミ屋やその他世にいう不良少年となるか、浮浪児となるか、父母に別れたのは空襲によって死別したのです。(略)
(ヤミ屋として生きている自分を恥じて)だから今の私には、死はただ一ツの人間らしい道を歩んだということのできる方法です。(略)
 悲しんで死んで行くのではありません。母を求めて私の人間らしくなかつた過去の生活と立派に縁を切って、人間らしい心になることができて死ねるということを、幸福に思つて私は死んでいきます。(略)(1-2ページ)

引用文中のカッコ内は私による補足。以下同じ。

終戦時12歳の証言者
(田舎から親族を探しに来た人から食料をもらって)私は子供ながらに、この人は空襲で孫を失ったのかもしれないなって思ったけど、かわいそうっていう感情はなかった。だって、死ぬより生き残って(上野駅の)地下道で暮らす方がずっと大変だったから。実際にいっそ死んだ方がどれだけ楽だったか!(26-27ページ)


そして女であることは、「浮浪児」生活をより過酷にする。

(靴磨きをする子どもたちのグループの)その中に女の子がいたんだ。年齢は小学六年生ぐらいだったと思うけど(略)
 ある日そのグループの男の子が万引きかひったくりをして、この女の子ともう一人の男の子以外みんな逮捕されちまった。・・・やがて別のグループに縄張りを奪われ、すっかり見かけなくなった。
 何週間かたって忘れかけた頃、仲間の一人が「前に駅前で靴磨きをしていた女の子、パンパン(売春をしている人)になってあっちこっちの長屋に出入りしているみたいだぞ。いいな、おなごは布団で寝られて」と教えてくれた。(略)
 体を差し出せば寝場所とメシだけは確保できたんじゃないかな。当時はそんな女の子はたくさんいたよ(77-78ページ)


 昔の子どもたちは、それでも生き残ってきた。当時の子どもは強かったのだろうか。

精神を病んだ子どもたちの施設で働いていた人の証言

「浮浪児と呼ばれた子供たちは、焼け野原で決して言葉にできないような過酷な体験をしています。今の子が同じ体験をしたらどうなるかって考えたらわかりますよね。
 それでも子供たちは生きていかなければなりません。それでそんな心の傷を抱えたまま路上で眠り、「ルンペン、どっか行け」と怒鳴られたり、死んだ友人の体から服を奪ったりして生きていくんです。そうした経験によってさらに心の傷が深くなる。昔の子は強かったっていいますけど、そんなことに耐えられる子なんてごくわずかなんです」(213-214ページ)


 冒頭取り上げた行旅死亡人の男性が、果たして戦災孤児だったかどうかはわからない。病院での入院生活に耐えかねて逃げ出したのかもしれないし(80年代以前の精神病院の待遇は、病院によっても差があろうが、非常にひどいところもあった)、困窮した生活から、家族が彼を路上生活にさせたのかもしれない。
 しかし年代から見て、戦災孤児となって、過酷な体験、生活のなかで精神を病み、野宿生活を続けていた可能性も大いにあり得る。

 そして今に生きる、戦争など全然体験していない世代の私たちが、こうして戦争の残滓(かもしれない)ニュースに触れることがある。

 それは戦争が、総力戦である第一次、第二次大戦が、どれほど広範囲に巨大な規模で行われた戦争であったかを、実感させる出来事と言えようか。

 振り返って8月15日、日本の敗戦記念日。あれから69年。

首相、「加害」「不戦」再び削除 終戦記念日 「靖国」に玉串料奉納(しんぶん赤旗8月16日)

 69年目の終戦記念日の15日、安倍晋三首相は、昨年に続き過去の日本の侵略戦争を正当化する靖国神社(東京・九段)に玉串料を奉納しました。また、都内の日本武道館で開かれた政府主催の全国戦没者追悼式の式辞では、歴代首相が表明してきたアジア諸国への「加害」の反省や「不戦の誓い」を昨年に続き表明せず、歴史逆行の姿勢を改めて強く示しました。


首相コピペあいさつ、長崎も? 被爆者からの批判に無言(朝日新聞8月9日)

(前略)長崎原爆遺族会の正林克記会長は式典後に被爆者を代表して首相と懇談した際、このことに触れて「長崎の誓い、決意は去年と同じだったのでしょうか」と問いかけ、「がっかりというか、被爆者みんながびっくりした状態でいます」と述べた。首相はこの時、手元の資料に目を落としたままで、あいさつの内容については言及しなかった。


2014-08-07 「安倍コピペ」演説はこの人が書いた?(vanacoralの日記)

 こんな人物を首相にいただいている国家は、本当にどうなんだろう。この先、奴らは、何をするつもりだろう。

 現実的なことを考えると、日本のような先進国同士による、先の大戦のような総力戦が行われる可能性は、そんなに大きくないのではと思う。そうなれば、戦災孤児は生まれても、1945年のように大規模なカタストロフにはなり得ない。だから、いいのか?

 歴史は証明する。アジア太平洋戦争の帰趨を、戦前の日本人の多くは予測できなかったし-予測していても口外できなかった-、第一次世界大戦前の欧州各国でも、それは予想できなかったことなのだ。
 だからこそ、アジアでの大戦を開戦させ、自国民含め甚大な被害を与えた原因である日本国が、戦争へ向けたわずかな可能性をも見逃さず、その芽を摘んでおく。

 それこそが、日本国で生きる人々の責務でないか、と私は考える。
タグ:戦争 安倍
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