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新編がエゴイスティックなバッドエンドなら、前作もまたバッドエンドだと思う~劇場版魔法少女まどか☆マギカ「新編」叛逆の物語について [雑想]

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デビほむ-劇場版公開時に配られたイラストカード。あえて画質落としています

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まど神-同上

 新編は暁美ほむらの救済の物語である。ただし・・。

 大きな話題を呼んだ劇場版の公開から約半年。そしてBlu-ray/DVDの発売から約1カ月。amazonのレビューには、発売前から多くのコメントが寄せられ、そこでファンの思いがたくさん語られている。私は幸い、自分で意見発信のできるBlogを持ち合わせているので、少し書いてみようかと思う。

 もちろん公開からそれなりに時間のたった作品のレビューをするつもりはなくて、個人Blogなので、私自身の感想を書くつもり。

叛逆の物語のラスト

 この作品、全般的に若干演出過剰気味に進む。随所にちりばめられたTV版との共通点、同人誌などでメタ化されたキャラクター達の性格描写を、比較的忠実になぞる展開。緻密なシナリオと細かな作画。映像作品としての出来は、ほぼ完璧と言っていい。
 作品を知っていれば知っているほど、作品の込められた情報量が多くて、観客の力量が試されるかのようでもある。素晴らしい作品だが、そのため非常に疲れる。

 そして最後の展開は、非常に賛否が分かれる(といっても賛辞が比較的多い)内容となった。

 新編では、登場人物すべてを動員して、出口のない永遠の迷路に取り残されたほむらを救い出す。本編10話の、全世界のアニメファンの涙を誘った、ほむらがまどかを手にかけるシーンも挿入して、まどかによるほむらの救済が演出される。
 本編で視聴者の誰もが祈るように願い、そして叶わなかった魔女から魔法少女への変化。ほむらはそれを成し遂げ、まどかとほむら、結界を破壊するために二人で天を穿つ、大団円を迎えるにふさわしいクライマックス。
 そして、円環の理に導かれるその瞬間に、まどかが、実は自分が魔法少女になったのは、誰のためでもない、親友のほむらを救うためだったことが語られた、まさにその感動の瞬間に・・・、

 ほむらはすべてをひっくり返す。

ずっと、この時を、待っていた。やっと、つかまえた

 第3ループで、ほむらが「何もかも、メチャクチャにしちゃおっか」と語りかける、まさにそのメチャクチャにしてしまう展開が待っていた。この作品が「叛逆の物語」となっているのは、まどかが作り出したアガペーとしての世界を、すべてエゴによって塗りつぶす、ほむらによる叛逆のストーリーだったのか。
 ほむらが悪魔化するシーンのために、それまで新編が、過剰にも思える希望に満ちあふれた演出となっていたのは、この絶望が準備されていたからか、といささか戦慄する。

 ただ、そんな世界でもなお、ほむらとまどかは、最後の最後にはあまり幸せそうには描かれていない。ラストシーン、転校生として現れた鹿目まどかと暁美ほむらの世界。まどかの思いを察して、前編ラストでまどかがほむらに託したリボンを、ほむらはまどかに返してしまう。まどかが幸せであればいい、と涙を浮かべる。これは彼女への決別か。それとも自分のわがままに、大好きなまどかを引き込んでしまったことへの後悔か。
 エンディング後のカットでは、月すら半分に切り取られた、舞台のような世界で、ほむらは舞台から落ちてしまう。それはあまり幸せそうな結末ではなかった。

TV版のラストシーンに対する違和感と・・
 ただ、このシーンを見て、改めて私は考えた。
 TV版そして、一昨年の前後編劇場版(TV版と構成は同じ)のラスト。確かにまどかが魔法少女になって、過去、現在、未来の魔法少女を救済するという、その動機も願いも崇高で確かなものだったけれど、私には、何か違和感が残った。私の周りも、何かモヤモヤしたものが残ったという。
 それが新編のラストを見て、その「モヤモヤしたもの」の中身が具体化した。

 そう、TV版のラストは、ほむらにとっては絶望、バッドエンドだったんだ。

 ほむらが望んだことは、まどかの救済。いやそれよりも、何よりも、自身がまどかと一緒にいられる世界を望んでいた。
 すべての魔法少女を、絶望で終わらせないというまどかの願いは、まどか自身を別次元に追いやりまどかを神化させた。

 だからTV版の最後、エンディング後のシーンで、ほむらはまどかの声で「がんばって」という台詞を聞く。これはまどかが同次元にいない、ほむらの妄想。悪魔をイメージするかのような翼の描写。会えないことへの絶望。

鹿目まどかが作り上げた世界と、暁美ほむらの作り上げた世界は表裏一体だ

 まどかが作り上げた、魔女のいない世界は、ほむらにとってはまどかに会えないというただその一点において、絶望的なまでにつらく苦しい世界だった。

 デビル化したほむらは、「ソウルジェムを濁らせたのは、絶望ですらなかった」と、まどかへの「愛」、つまりまどかに会えないこと、がソウルジェムを濁らせていたことを告白した。

 だから円環の理として、まどかがほむらの前に姿を現したとき-前編のラストからどのくらいの時が経ったのかは語られていないけれど-その時を待ち「やっと、つかまえた」という台詞は、ほむらの真の気持ちだったのだろう。
 けれどさらに、ほむらの願いは、神となったまどかと再会するのではなく、魔法少女にもなっていない、ただ自分だけを見てくれる、同級生としての、人間のまどかだった。だからほむらはまどかの人性を、神から引きはがしてしまった。「私が連れて行ったのは、彼女の一部でしかない」「人間だったときの記憶」。


 まどかはほむらの幸せを願い、「全て」の魔法少女と願いつつ、実はほむらの救済を何より願った。

 けれどまどかによってもたらされた世界は、ほむらにとっては絶望的に苦しい世界だった。

 ほむらはまどかを孤独の世界から引きはがすために・・そして己の欲望のためにも・・まどかを神性から引きはがし、自らの世界に連れ去った。

 けれどほむらによってもたらされた世界は、まどか、とそして多くの魔法少女達にとって、絶望的ではないにせよ、あまりいい世界とは言えないものだった。

 脚本を書いた虚淵氏は、パンフレットや各紙のインタービューによると、この作品を、まどかによるほむらの救済で終わらせる構想だった。それを総監督の宮本氏らが、その先へ進むことを提案したという。
 まどかがほむらを円環の理に連れて行くシーンで終わらせれば、それはそれは美しい、感動的なフィナーレになったことだろう。
 けれどそこから一つ踏み出したことによって、この作品は、TV版-そして再構成された劇場版-のエンディングと、意図せず非常に印象的な表裏を成すものとなった。

 相手のことを思ってすることが、必ずしも相手のためになるわけではない、それを象徴的に表してくれた本作であった。
*ほむらがまどかを引きはがした動機は、ほむらにとってはまどかの救済でもあった。それを暗示するシーンは新編にいくつかちりばめられている。

・・・・・

さて

 私はほむらを少々偏愛しているので、あまり客観的な見方をしていない。そりゃそうだ。TV版であんな演出を見せられたら、ほむらを偏愛せずにはいられない。その意味でほむらと私の性格は若干似ているかも。

 「まどか」劇場版のオープニングは、前作も本作も、これから始まる映画の内容を暗示する。幸せいっぱいの前作のオープニングと対照的に、新編のオープニングは絶望的だ。4人の魔法少女が踊る中、モノクロのほむらが一人座り込んでいるカット、手をさしのべるまどかにほむらが触れた瞬間、砂となって消えてしまうシーンで終わっている。

 本作は秀逸な演出だったけれど、「まどか」という記憶を共有できないという孤独感、そして魔女として果てることを決意した思い、葛藤と絶望へ至る演出には、映像作品とはいえ見ていて非常につらかった。

 だからこそのラストシーン。視聴者の私は、ただほむらの願いが叶うことを期待する。ほむらがまどかの人性を引きはがして、デビル化したとき、何だか、とてもほっとしたのだった。

 作品から距離を置いて、客観的に評する人による、優れてはいるが最悪の物語だとの評価も納得する。

ねこねこブログ 様 「劇場版魔法少女まどかマギカ新編叛逆の物語視聴。全てをひっくり返す史上最悪の極めて優れた物語。虚淵玄、絶望の系譜。」

 それでも、何か違ったかたちにせよ、ほむらが強大な力を持ってある意味願いを叶えたことは、私にとっては非常に得心がいくというか、いやなんだかうれしい感情がわいてきたことを思い出す。
 ずっとつらい思いをしてきた彼女が、ようやく報われる姿を見て・・いや、報われたのか?それでも、TV版のラストよりは・・。

・・・・・

 劇場版新編を私は大きな期待と、そして不安をもって視聴した。そしてそれらの期待は大きく達成され、一切の不安はなくなった。

 次回作はあるだろうか。この優れた作品に次回作があるとしたら、私はまた大きな期待と、少しの不安を抱えて視聴することになるだろうと思う。


史上最高の映像作品に乾杯! Walpurgisnachtの日に・・。
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