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不作為の罪-「知らなかった」ではすまされないこと [社会情勢]

 「ごめん。知らなかった」
「分からなかったよ。なぜ教えてくれなかったの?」
 あなたの上司がこんなことを言う。あなた自分の職場の状況を見てないんですか。いつも同じ部署で働いているんですよ?「教えないと分からないのはダメなヤツだ」って常々言っていたのは当のあなたでしょ..。でも「ごめん」とか「悪い」って言うだけマシか。自覚してるんだもんな。何も知らずに陰口の材料に使われたもんにゃ..。

 すべてのことを知っている人はいないし、知りながら対処しないことは罪になるかもしれないけれど、知らないから出来なかったことは、結果が同じであっても後者はより責任や罪が軽くなる。これは一般的にはそうだし、刑事裁判ではそのような方向で量刑が決められる。だからこそ殺人事件では殺意の有無が問われるのだし、行為者が薬物依存等の影響が考えられるケースについては「責任能力」とやらが問われるのだろう。これを私は否定しない。だが当事者の発言をうのみにはできない。それが組織の人ならば、そこにある打算がかいま見えるからだ。

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 うつ病に陥った人に、「頑張れ」と励まし、休まなくてはならない状況なのに休ませなかった。退職願を出しているのに「あともう少し頑張れば失業手当がでるから」と退社させなかった。しかもその時点で、有給休暇が10日分も残っていて、それを消化させれば手当も出たとしたら?有休を取らせないという圧力が、会社トップから出ていたとしたら?
 私がかかわっている川田さんの過労裁判のケースでは、その辺の問題が非常に多く見られた。社員、先輩、OJT担当(研修担当者)、上司..。いずれも通常の業務をこなし、彼を陥れようとするそぶりは何一つなかった。
 しかし彼の働く銀行は、当時極めて過酷な銀行再編の中に放り込まれ、同じ年にトップ人事が変更され教育方針が変わった。こんな職場の、お粗末なマネジメントを、職場全体でカバーしていたこれまでの状況が、環境激変によってこれまで通りの機能を果たさなかった。社長が替わって機械的なコスト削減が声高に叫ばれ、研修に対してもそれが適用された。そんな中で研修内容が薄められたにもかかわらず、現場の業務がいつもよりはるかに忙しくなっていたにもかかわらず、運営体制はそのまま。そんな状況で現場に放り込み「研修」させるという方法論は、まともに機能するはずもなかった。とてつもなく忙しい状況で、川田さんや部門の業務=成果物としての「プログラム」を品質管理する余裕もない。何のサポートもないまま、うつ病が発覚してからもお粗末な対応に終始した企業。それが結果として彼の自殺を生んだ。
 裁判で会社側の「反論」なるものが久々に出た。-労基署が反論するようにとアドバイスしたのでは、と我々はみているのだが-そんなお粗末な状況を(おそらくは知りつつ)正当化するという貧しい心算の文章で、検討に値しない内容であった。そもそも彼が自死した状況を問題視したからこそ、半年後に社としてはじめてメンタルヘルス研修が行われたのだろうが。

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 「知らなかった」ですまないことが世の中にはある。私は医療機関で働いているが、専門職種の集まりである医療機関は、言うまでもなく「知りませんでした」が顧客の命に直結する。だからこそ、悪気がなくてもその時点での研究成果を知らなければ罪に問われることがあるのだし、プロ意識を常に持つ人ほど日常の学習や研修を怠らない。

 一般的な組織においても多かれ少なかれこのことは同様と思う。そしてその「知らなかった」ではすまないことはより上位の役職になればなるほど多くなる。マネジャーがスタッフのことを「知らない」、トップマネジメントがマネジャーやそれが管轄する職場の状況を「知らない」。新規に発生する法的な義務や責任を「知らない」。「知らない」ではすまされない状況はいくらでもある。知らないことで責任を回避できるなら管理者や責任者は必要ない。「知らない」と言い逃れる局面が可能であるならば、そのような状況があるならばまさにそのこと自身が組織の管理責任を問われるケースと言えよう。

 我々「民主的」な組織は、進歩的な人たちが口にする次の言葉を良く耳にする。「知ってしまったことの責任」-南京大虐殺などの戦争犯罪、六価クロム事件やスモン、森永ヒ素ミルク事件などの公害、東ティモール独立運動やパレスチナ闘争、ラテンアメリカにおける合州国の覇権主義とそれに対抗する活動、そして直近ではイラクでの米軍による虐殺事件等々-知ったからこそ、それらを放置しない行動が求められると言うことを。

 私は無知は犯罪であると思う。そしてそれに責任を負うのは、前述の通り役職が上位であればあるほど多くなる。マネジャーであればスタッフの、トップであれば各マネジャーの、それぞれの行いに責任を持たなければならない。責任を持つには、状況を知ることが必要になる。それを怠るのは仕事をしていないと言うこと。責任を問われ、「知らなかった」というのは無責任である。無責任を放置することは官僚主義の育成につながるものだ。官僚主義とは業務を細分化して「縦割り」にし、ミスを認めず、責任を分散させることにあるからだ。
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 過労自殺裁判の経過で、判例などを参照する。さまざまな事例を学習する。そして私は頑張りすぎるのはよくないという事を知った。頑張りすぎると、それを会社が利用する。

頑張って仕事を何とかやり遂げた-仕事をやれたのは会社の体制がよかったからだ。不十分だったかもしれないが、だから仕事が出来たと言えないか・・
仕事が忙しい、プレッシャーが強くて眠れない。でもオレはうつ病なんかじゃない。酒でも飲んで紛らわすか-仕事の後にすぐ寝ればいいものを、酒など飲んで夜更かししているから過労死するのだ・・

 裁判ではこんな感じで事が進み、これらは被害者の過失ということになる。今回の裁判でも、お粗末な研修体制を、死んだ人の頑張りを利用して正当化しようとする、そんな浅ましい心算を見た。遺族の思い、いかばかりか・・。

 実は私も同じような思いを味わった。無責任な人材登用をして、そのまま放置して責任を取らない幹部。部下の陰口ばかりたたいて自身の行動を顧みない上司。ろくな働きもせず現場に責任を押しつけるシステム部と、部門を自分の「オモチャ」にし自己保身に走る「できのわるい課長」。当時私が指摘した全て問題、その結論は、マスコミにまで報道されるほど予想通りになった。
 現在本社での電子カルテ導入に関して、予想通り現場は大混乱。外来患者が1割以上も減少する事態は、まさに「惨状」と言っていいが、その事態収拾に狂奔しているのは、導入に何の関わりを持たされなかった管理職。本来責任を持つべきはだれか、言うまでもない。

 ああ、またまたまた、最後にグチっぽくなってしまった。未熟な組織が引き起こした過労死の裁判は、実に私の経験とオーバーラップする。これらの経験は、私にとって実に良い教材となり、その血肉として脈付いている。相変わらず反面教師としてであるが。

・・私も一時頑張りすぎたよ。しかしそこからさえも常に学んでいくことが出来た..と思う。


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