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ある活動家の死 [雑想]

 鈴木市蔵が死んだ。

 「62年の参院選で共産党公認で初当選し、1期務めた。600万人の労働者が団結したとされる1947年の2・1ゼネストでは、中心になった国鉄総連合の中央闘争副委員長だった。」(asahi.comより)

 2.1ゼネスト時、伊井弥四郎と並び、労働側の重要人物だった男。国労分裂が決定的になった49年国労大会で、主流派としてGHQをバックとする「反共」民同と対抗した男。下山事件、三鷹事件、松川事件、そして青梅事件など、今なお真相が闇に包まれているこれらの「謀略」事件の後、国労は民同に占拠され、その力を失った。そして最終的に87年の分割民営化による激しい弾圧で事実上の終止符が打たれた。しかしいまだに復職を求めたたかう国労組合員も多くいる。

 彼は伊井と同じく共産党員であった。戦後の労働運動を支え、代表的な活動家であった彼の訃報は、赤旗には掲載されなかった。鈴木は64年、志賀良雄らとともに「ソ連派」の中心となり党を除名された。参院一期というのはそのためだ。
かつて労働運動で重要な役割を果たした彼が、こうしてひっそりと死んでいくことに感慨を禁じ得ない。そしてかつてあれほどの蛮行を働いた中国共産党との関係改善を期に、中国の問題については常に及び腰の共産党を見ると、彼への扱いとの対比に、また別の感慨がわいてくるものだ。
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 大学のゼミで国労大会の速記録を読み、戦後の労働運動を学んだ。その時講師代わりに来ていた佐藤一は、松川の被告でありながら、もはやごりごりの反共。ことあるごとに民同を擁護し、鈴木はじめ主流派への攻撃をしていたことを思い出す。「あなたはどちらが正しいと思った?」「この鈴木さんという人の・・」「彼は共産党だよ?」とこんな感じの問答がゼミでやりとりされた。教授がなぜ彼を招いたのか、その意図はいまだによく分からない。教授自身はその後、下山事件等を「謀略」と断言していたのだが。
 さて私がその時提起した、下山事件や三鷹、松川の社会的影響に関する疑問に、佐藤一は最後まで応えなかった。彼はあの事件が左翼陣営に与えた影響について、あまりにも、そして意図的に過小評価していたからだ。あれから約20年。「下山ケース」については様々な証言が刊行された。佐藤の論拠は、ことごとく崩されていく。
 懐かしい思い出。その後刊行された彼の本には私の名前も(なぜか)出ていた。

 鈴木さんは、晩年アルツハイマーで家族含め大変な御苦労をされたとのこと。ここに支援の報が掲載されている。


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