かつて東京大空襲で甚大な被害を出した本所区に立つタワーから煙る都心を望む


ずいぶん前に、聞いた。

「浅草雷門があるでしょう。私ね、3月14日に雷門の前に行って、真っ黒焦げの死体がたくさんあるのを見てしまったんだ。今でも雷門を見るとその時のことを思い出すんだよ。」

 仕事柄、高齢者の知り合いが多いのである。そんな高齢の方と話をすると、ふとこのようなことを聞くことがある。そして当時の雰囲気を伝えてくれるこのような話を貴重に思う。

 3月10日の東京大空襲から、今年で70年。その経験を語れる世代も、少なくとも70代後半という時代に、私たちは生きている。
 空襲自体はもちろん米国が行なったもので、その時使われた焼夷弾は、後のナパーム弾の原型。現在では禁止されている兵器だ。日本家屋の構造研究から作り出され、屋根を突き破り屋内で発火するように設計されたもの。民間人をターゲットにした非人道性は、もちろん免罪されるものではない。
 しかしまた日本(旧帝国)も、避難をせずに消火をせよと住民の命を省みない命令を出して、それがますますの被害につながったとも指摘されている。

 いつも参考にしている弁護士の澤藤統一郎氏のBlogには、東京大空襲に関する簡潔な指摘があり実に参考になる。

「「南無十万の火の柱」 - 東京大空襲70周年」(「澤藤藤一郎の憲法日記」2015年3月10日)

 このエントリの中に、3月10日は当時の陸軍記念日で軍楽隊のパレードがあったという、との表記がある。冒頭の言の方はこうも言った。

「10日はね、昔の陸軍記念日なんだ。日比谷公園の近くに日劇があってね、みんな真っ黒な顔して大八車を押しているところへ、軍楽隊がドンドンとやっているんだ。こんなじゃあ戦争に負けるわけだ。」「もちろんあの頃は負けるなんて思ってなかったよ。天皇陛下万歳だったからね。」

 少し淋しそうに、そんなことを言っていた。


 さて翌日の3月11日。東日本大震災から4年が経った。もう4年、まだ4年。