「プレジデント」の12/4号特集が法知識特集だったので、いくつか違和感の残る記事はあったけれど、重宝するものであった。ただ大前健一(注1)なんて政治上はずいぶん忘れ去られた感のある人物が、巻頭にコラムをよせていた。同意できるところもあるんだけれども、大方同意できるような一般論から、極論へ持ってくる手法はよくあるもの。主要な論点は日本の現行法についての一般的な問題-そりゃ道交法を拡大解釈したら弾圧法にさえ転嫁しうるし、実際にそんな「事件」はいくつかある-を書いていたけれど、憲法のそもそもの立脚点を無視した論旨にはあきれることしきり。

 コラムによれば憲法は国家と個人の関係しか定められておらず、家族や「コミュニティー」(地域共同体のことのようだ)を定めたものがない、だから日本の精神的荒廃が発生している。憲法の評価点はあるが、「内向きに引きこもったまま」ではだめだから、解釈改憲はやめて自衛隊を合憲化し、かつシビリアンコントロールを定義せよとの主張だった。
 同じ論文の前半で、ライブドアの堀江さん(注2)によるニッポン放送株買収の事件に関して、証券取引法の出遅れを指摘しているのだけれど、これを論文後半の自衛隊に当てはめれば、堀江さんに対しては法の網をかけて規制することを肯定的に評価し、かつ法の対応が遅いことを批判しているにもかかわらず、自衛隊についてはその違憲的存在を認めて、逆に憲法をその実態に合わせよと言う。問題解決の手法から見れば転倒している論理を、憲法に関してはその論理を適用して現状を肯定せよ、そして法典そのものを変えよと言う。
 マネジメントのプロであろう彼が、この矛盾に気がつかないはずもなく、まあ意図的にやっているのだろう。憲法改正論議と、その前段階である教育基本法改正論議がかまびすしいこの状況で、このような言質が何を意味するのか。そして・・

 11月21日付け朝日朝刊31面の、大江健三郎のコラム「定義集」。95年ジャック・シラクが大統領になって早速やったことといえばムルロアでの核実験だが、その時のエピソードにはじまり、現在フランスにおいての、日本における核論議に触れていた。
「日本人はこれまで核の問題について議論することがなかったのですか?/そういうことはありません(と私は答えました。)とくに広島・長崎の被爆者が体験を語り続けてきた。それがどうして、核の問題でないだろう?その積み重ねの中で、被爆者たちは、被害者としてのみでなく、アジア全体を巻き込んだ戦争の加害者としても、過去と将来を語るようになった。それが核廃絶をもとめる日本人の運動を性格づけている。」